2009.07.23

すり寄る人

「嗚呼、失敗だ」
「また人を換えるのか」
「もちろん。ただ『絆』は残しておく。そういう仕業が可能な時代なのだ今は」

映画館を(郊外型の快適なシネマコンプレックスをそう呼んでもよいのだろうか。高名な映画学者からの返答はまだない)出てから初めて気づいたことだが、すり寄る人というものは歴史をなぞり、成功例をなぞり、速度をなぞり、そしてまたアウラというか、よく理解できないがありがたい「感じ」のするものをなぞるのだが、空間や失敗例、根付くことや中途半端さを蔑視することを理の当然とする程にはナイーブではないように思う(しかと確かめたわけではない)。かくして二項対立により組み上げられた時代は静かに、誰にも気づかれることなく終わっていった。それが対立であったのかさえ忘れてしまってもよい。名を売ること、それが倫理と呼ばれる時代もあるのだろう。是認はすまい、か。「わかっているけど」「その気持ちはわかる」「理解できる。しかし」等々が頻出する。

だが、クロード・レヴィ=ストロースはいまだ21世紀という時代を生きている。その家名をズボンのブランドへと転用することに抗いつつ。すり寄る人、それは私の属性でもあり、あなたの要素でもある。たまたま選ばれたに過ぎぬ猫という名を持つ歴史的対象に関する二三の言説を「イメージ」へと回収して微笑む人よ。風の薔薇か。引用か。データベースか。なんであれ微笑ましいすり寄る人の群れ。私がそこに含まれていないと考えることは禁じられており、その禁止を言明することもまた。

とまれ、すり寄ること。愛ではなく権力のために。
是認はすまい。

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2009.06.18

想像力の豊かなあなたへ

想像力の豊かなあなたにお願いがある。想像力の貧困な私の「想像」へ思いを馳せてもらうことだ。私の「想像」の中では妬みと恨みに駆動される電気機械がうなりを上げており、狭い運河には時折滞るコールタールの流れが異臭を放っている。ホームセンターと薄汚れたスーパーマーケット、そして痩せた欲望の間を行き来する毎日なのだから、想像力を育て養う契機などあろうはずがない。書庫に通じる運河などかつてから存在し得ないのだから(あろうならば書物はやがて異臭を放つことになろう。要因はいろいろ)。

だが。奇遇なことに日本語では、想像力と創造力とは等しい音調の元にあるために、運河には夥しい思い違いが流れゆきかうこととなってしまった。門番は今日も選別と通過許可の承認申請に忙殺されるばかりとも聞く。ロマン主義を唾棄することを生業とする想像力の貧困な私が「創造力」を喜ぶ筈もないので、日々通うホームセンターにて珍しくレジに並んで持ち帰ったシュレッダー(3980円)にて処分を試みる。「やはり刃の回転が反転するものが良いです。安物は使えない」「そうか。すまん」等々。

想像力の豊かなあなたにお願いがある。詳細は想像して欲しい。おそらくはその想像が正しい。

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2009.03.01

超自我になりたい

僕もあたしも超自我になりたい。スーパーエゴ。自我を超える自我になりたい。と彼や彼女はひとりごちながらどこかへ立ち去る(ふりをする)のだが。思えば、「超自我」という訳語は端的に拙かったのだろう、それは決して自我を「超えるもの」ではなく、単に論理階層の違いでしかなかったのだから。日本に住まい学問をするとはそういう拙劣と根気よくつきあうことでしかないと思う。それも決して真面目にではなく、時には転向を執拗につきつけてくるものを気長にやりすごしながら、である。

だが、そのような拙劣に我慢がならない論理階層にとどまらざるを得ぬ事情の人もしばしば存在する。私や俺はそのような拙劣を割と愛するものだが、ハードボイルドという語彙をもって「黄身が黒ずむまでに茹で上げた鶏卵」と直訳することに我慢のならない論理階層もまた現実の一つである。イメージか。ああそうだった、イメージ。いつまで経ってもイメージは視覚の専政を脱することがなく(いや困った、それは概念か)、まさにそこにこそ超自我たらんと欲する欲望は生起するのだ。だが立ち止まって考えてみよ。超自我とは常に「誰かにとっての」それでしかなく、常に「それ」という代名詞で済まされてしまう悲哀を抱えたものであった。それ。超自我たらんとすることをこそ欲望する「それ」。寒い命。男とは「たまたま死んでない裸のいのち」だ、とヴァレリーは言ったらしいが、私、もしくは俺はそんなことを耳にした覚えはない。

だからそれがなんだ。抑圧(のスティグマ)を旗印とする威勢のよい「僕やあたし」たちとすれ違うことを避けるばかりの私や俺だが、既にして二重の超自我とのしがらみを重ねてきたことは周知の通り。あまり出来のよくないこの世界だが、それでも僕やあたしは超自我になりたいのだ。「君を抑圧したい」「あなたを」。おお。ああ。恋に故意にときめくね、春のエクリチュールは無謀。

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2008.12.19

錦の御旗

いろいろな錦の御旗がある。具体例は挙げないが(私はいつも抽象的な媒体を用いることによってしか考えることができない。文字とか、音とか)、どの御旗もそれ自体としてはとても美しい。美しい御旗たちは右に上に、左に前に打ち振られ、それを眺めては溜飲を下げたり上げたりもする。時に旗竿がぶつかり合うような辛辣な場面に出くわしたりもするが、その時でさえ御旗の美しさは揺るぐことはない。そもそも、どんなときにでも揺らぐことのない美しさなどに何の意味があるのだろうか。「旗の美しさなどはない。美しい旗があるだけだ」とひとりごちたのは誰だったか。敬称が足りないぞ。恐れ多くも御旗に。そして錦を織る人の辛辣さに。

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2008.06.10

その近さを競え

その国では、近さは通貨であり、同時に財であった。誰もが近さを手に入れようと奮闘し、競うように近づくことを欲した。ときには思いあまって、任意に近さを捏造しようとする者さえ現れた(さすがにそれはその国の法によって罰せられたが、罰を覚悟してさえも近さを希求する輩は時折出没し、非難はされるものの、羨望のまなざしを向ける者すら一部にはあった)。媒介される生が多数派となった時代の悲喜劇である、と高みに立った「分析」を施す者もあったが、なにぶん、近さを得られない立ち位置にある哀れな人間のひがみと看做され、顧みられることはついぞなかった。近さを誇示できぬ者は、媒介された近さであれなんであれ、手当たり次第に近さのリソースを駆使するのが通例であったのだ。どうしようもなく近さに縁遠い者にも、最後には「関心」という名の通貨を用いることが許されていた(それはかつては特別な免罪符と看做されていたが、こんにちでは誰もがそれを使うことを躊躇わない)。その国のこのような時代には、「遠さ」という概念は存在しないし、それは罪悪ですらあった。

私は「遠さ」をたんじゅんに称揚するほどのお人好しではなかったが、近さの神話に取り付かれた人びとを苦々しく見守ることを業務としていたので、近さのインフレーションに対して都合よく距離を置くことのできる、恵まれた立ち位置にいた。もちろん、そのことによって「近さ」という通貨を稼ぎ、妻子を養っていたのである。ひどい話だ、と自分でも思う。そして、そのようなひどい話に憤慨するだろうことが予測される人びとから、自分と妻子を隔離することだけに日々の関心を向けていた。「エゴイズム」ではないな、「小市民」と呼ぶのだろう。今や小市民の身分さえ贅沢品に過ぎない。

ある夜、私は「あなたに近づいた」という通告を、ドアホン越しに耳にした。私は諦念と共にドアを開けた。立っていた中年の男(歳の頃は私と同じくらい)は、あたかも出生の秘密を打ち明けるかのような思い詰めた様子で、明日の予定について私に説明した。「タクシーの隊列は、右ではなく左に曲がることになっています」彼の説明は流暢ではあったが、どこか空疎にも感じられた(もちろん、それを責める資格は誰にもない)。では近さを、と彼は締めくくり、私に右手を差し出した。私はその通貨を—財でもある—を彼の右手に対して支払った。満足して彼は去っていったが、何に満足したのか、私は今ひとつ自信をもって断定することができない。遠くに離れてしまった今もなお。

その国では、近さは通貨であり、同時に財であった。誰もが近さを手に入れようと奮闘し、競うように近づくことを欲した。革命が終わり、近さの価値が暴落してしまった今となってはどうでもいい話ではあるのだが。

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