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2005.04.03

『音楽未来形』について中間総括

『音楽未来形』が出て一ヶ月あまり。書評も出そろってきたので(まだまだ歓迎ですけど。引き続き右のサイドバーに追記していきます)、ちょっとここいらで中間総括しておく。

この本の企画が最初に持ち上がったのは2003年の2月頃だったと思われる(谷口くんの証言によれば)。「レコード以降の音楽メディア史」を手軽に振り返る本がないために、DJカルチャーや著作権問題などを研究し発表する際、要らぬ誤解や勘違いで議論が錯綜してしまい、不毛な音楽観論争に陥ってしまうことにわれわれはほとほとうんざりしていたのであった。そこで、『レコードの美学』以降の音楽作品概念を整理する概説書、というコンセプトを谷口くんと話しているうちに盛り上がり、本にすることに決める。その手始めとしてまず共著論文の執筆を開始し(5章の元になった「録音・複製テクノロジーと音楽聴取体験の多層化」)、同時に知り合いの編集さんのツテをたどって出版企画を各社に持ち込んだ。

だから当初は、この本は新書にする予定だったのである。現在の音楽書は、とにかく「売れない」。売れるのはクラシック関係でなければ、アーティスト本かレコードガイドでしかない。つまり「音楽に従属してそれを褒め称える本」しか音楽書コーナーには置いてない、と言い換えてもよい(ちょっとオーバーにいえば、だけど。だから津田大介氏の『誰が「音楽」を殺すのか』みたいな、その状況に一石を投じる本のヒットには励まされた)。
われわれ的にはそういうのはとにかくうんざりであって、「音楽ファン」以外に読まれ、今後の音楽をめぐる議論の前提を整理する「一般書」を書きたかったわけだ。新書というフォーマットはその目的にとって申し分ない。しかも安くて学生さんに買って貰うにふさわしい。ということで、某社や某社、某社などにターゲットを定め売り込みを開始したわけである。

しかーし。無名の若造に新書を書かせるような無謀な版元はやはり存在しなかったのであった(笑)。数社に話をうかがったが、どこも初版1万から1万2千部スタートなわけで、音楽書でその部数を見込むのは厳しい、というのが共通したお答えであった。というわけで、「新書は無理だけど単行本でヒットにしましょう!」と親身に相談に乗っていただいた洋泉社の渡邉秀樹さんのお世話になることとしたわけである。

谷口くんはまた別の考えがあったのかもしれないけど、執筆時の私としては、本書の読者層を4つほどのグループに想定していた。

(1)メディア論・文化社会学・ポピュラー音楽研究に関わる人々
(2)クラシック音楽の規範を内在化した伝統的音楽アカデミズムに関わる人々
(3)ポピュラー音楽評論家・一般ファン(クラバーやDJを含む)
(4)著作権や音楽産業の近年の動向にコミットしている人々(研究者や業界人)

これらの(互いに異なった知識背景と価値基準を持つ)4つのグループはあまり混じり合うことがない上に、ある事実に対する価値評価が真反対になってしまったりすることすらしばしばある(特に(2)と(3)との間で)。
基本的にわれわれは(1)に自分たちの軸足を置いているつもりであったが、どう(2)〜(4)の人々にも満足できかつ退屈させない記述を行うか、ということには(成功か失敗かの判定はともあれ)ホンマに苦労したものである(なので、gotanda6氏が本書を評して言う「3冊分くらいの内容が一冊につまってる」というのはご明察というか、そうせざるを得なかったわけである)。

例えば白石知雄氏(この方は阪大大学院時代の私の偉大な先輩の一人であり、常々的確かつ教育的な批判を(2)原理主義的立場から投じてくださっている、マスダにとっての恩人の一人である)の批評にあるように、西洋芸術音楽における楽譜の扱いなどはより厳密に見ていくならば、本書で行ったような図式的な整理には決して収まるものではない。しかし、そのような「繊細な」問題をずばっとカットしてまでも、上記(1)〜(4)のグループが共通に議論できるたたき台を作る必要がある、とわれわれは(いや、増田は、か)信じるものである。

繊細な問題に拘泥することそれ自体が、音楽をめぐる語りを貧しくし、自分の言葉の通じる範囲で夜郎自大になることを促進させてきたのではないか。

とにかく、これらのグループ相互は「言葉が通じなさすぎ」なのだ。われわれがいらいらしてきたのは、きょうびのポップ・ミュージック(いや音楽と社会の関係全体)について考える人々が、あまりに自分のグループ内の言葉に自足しすぎてしまうことに対して、であった。
ひょっとしたらそれが、北田暁大氏の言う「音楽をめぐる言説空間というのは、<「メディア・技術の変容」と「思考様式(あるいは社会的関係のパタン)の変容」との関係性を論じる>というメディア論的語りを拒み続けることを、一種の構成的規則として再生産してきた場なんじゃないか」という評言が指し示していることなのかもしれない。
渡辺健吾氏が指摘する「Body Musicのジレンマ」、つまり、そのような「繊細さへの執着」よりも「共有される言語空間を構築すること」を優先させようとすると、常に「考えるな、感じるんだ」という横槍が入ってしまうダンス・ミュージックのイデオロギーもまた、そのような「再生産される構成的規則」の一つだ。

なので、(1)のグループの「同志たち」は、ある特定のジャンルに属する文化を常に他のジャンルと比較し、混ぜ合わせ、接続することによって考えることを倫理としてきた、と言える。例えばマンガ研究者の瓜生吉則氏が、マンガと音楽のre-presentationの相違に着目するように。あるいは仲俣暁生氏が、『図書新聞』での書評(いただいた書評の中で最も有り難かったものの一つです。「音楽書ゲットー」の外部にこの本を連れ出していただいたことも含め。しかも第一面掲載!)で、文学や書物といった別の複製文化へと問いを接続するように。こんにちのあらゆる文化は、単独ジャンルの中だけで思考していても仕方がない、と強く思うのだ。

だからこそ、この本は音楽に興味がないひとにこそ読んで欲しい、と思っているわけです。

課題もある。円堂都司昭氏の指摘するように、DJやらiPodやらよりもむしろ携帯やカラオケといった「よりわれわれの社会に根付いたドメスティックな」複製テクノロジーこそが重要、というのはその通りだと思うし(これは弁解すれば、こんにちの日本の音楽言説の中では、ドメスティックなテクノロジーよりも舶来のものこそが「未来をもたらす」といった信仰がいまだ強いことによる戦略的な選択でもある)、FlowerLounge氏が言うように、DJの実践に対するディテールはさらなる補足が必要だろう。そしてなによりも、マクルーハン的なテクノロジー決定論的な色彩が拭いがたい論法は、「議論のたたき台としての共有可能性」を第一に目指したものとはいえ、(1)の立場からいずれ出てくる主要な批判点となるだろう。

さらに、多くの評者から指摘されているように「未来がジャック・アタリで終わりかよ!」というのは全くもってその通りであって、実は題名を洋泉社が最終決定したのは6章書いてる途中だったわけです。企画としては「音楽観とテクノロジーの現状」に焦点をあてたものとしてずっと進行してきたので、題名がなかなか決まらず最後の最後に決まった、ということで、内容とタイトルの齟齬が生じたことはお詫びしておきたい。

けどね、少なくともマスダが考える音楽の未来形は、6章の注19(258頁)に言い尽くしたつもりだ。どんな具体像が現れるか、ということを正確に予言する能力や意思や義理は、すくなくとも著者たちにはない。

とりあえずそんなとこです。だからもっとこの本読まれて、罵詈雑言でもいいからがんがん批判とか議論とか出て、音楽をめぐる現状について、異なる立場の人が風通し良く議論できる契機になれば、と強く願ってます。まあ、手放しで褒めてもらえるともっと嬉しいんですが(笑)

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コメント

最初に出版の案を話し合ったのって、確か2003年2月のマスダ兄の上京時ではなかったかと記憶しております。まず僕が鳴門の紀要に書けないかと相談して、規約を調べてもらったりして。で「紀要もええけど、この際本狙おうやー」と盛り上がったんですよね。
それにしても、見事なマッシュアップぶりですね>この記事

投稿: 谷口 | 2005.04.04 01:05

音楽書のコーナーに並べられなければ、
売れる!「音楽未来形」なら、メディア論、
軽スタ、ITあたりかな。あるいは、教職関係
のコーナーあたりもいいと思う。教員を目指す
学生さんが買ってくれるでしょう。

閑話休題

僕の新刊(4/21発売)も「日本史・戦後史」の
棚に置いてもらえれば売れると思うのであるのだが。(とちゃっかり宣伝させてもらいやした。)

投稿: キラキラ湘南 | 2005.04.04 01:22

そうだっけ?訂正しときます…>谷口くん

いやーオレがこっそり事前宣伝に勤めてるって知ってました?(笑)<東谷さんの本
楽しみです。

投稿: マスダ | 2005.04.04 02:06

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