コンテンツかコミュニケーションか、対価はいくらか年収はいくらか
■ある記号の集積を「(価値のある)コンテンツ」=何らかの動かし難い「内容」として捉えるか、あるいは誰かからの道具的な「メッセージ」と捉えるか(コミュニケーション)は、その受容者の認識に依存する。
■そのような個々の認識は、社会的な構造によって形作られるいっぽう、個人的な偏差も当然生じるだろう。
■個人的な偏差をならしても、「誰もが『価値ある』と考える」ようなコンテンツは存在しない(今の福永祐一に必要なのは『言葉と物』ではまったくなく、秋にラインクラフトとシーザリオのどちらを選ぶべきか、についての判断であろう)。
■そうなると、コンテンツとコミュニケーションの「客観的」区分は、資本主義社会の元では「その記号系がカネに変換できる契機がどれだけ存在するか」という局面に求められ「がち」になる(それで決定される、ということではない。誰かが言った一言が、重要な「(価値のある)コンテンツ」として機能することはいくらでもある)。
■議論の混乱は、そのようなアウラ的かつ経済的な構図に依存する「コンテンツ/コミュニケーション」の流動的な区分を、記号集積に内在する「動かし難い」価値の区別として、各々の認識が捉えるときにこそ生じるだろう。
■そして、「これはコミュニケーション」「これはコンテンツ」「いや違う」「お前は何もわかってない」といった類の主観の側からの恣意が満開となるだろう。それが至ってさらには「コンテンツ主義者」「コミュニケーション主義者」というレッテル貼りが開始されるだろう。
■いま起こっていることはたぶんそういうことだ。
■カネとアウラの関係は各々の認識において相対的である、という単純な事実は、メディア論的な区分とはひとまず無関係である。
■メディア論的な区別(紙/ネット)と、それがコンテンツであるか/コミュニケーション(馴れ合い)であるか、の関係は4つの象限に(とりあえず、主観的に)分けることができる。
■面倒なので図示はしない。紙媒体に日常的に連載を抱える人、一世一代の論文を刊行する人、ネットにデータベースを構築する人、ブログで馴れ合う人。それらがまあ各象限のいちおうの理念型になろうか。
■で、そこに経済がどう絡むか、はまた別の問題だ。馴れ合いによってカネを稼ぐ人もいれば、無料で紀要に凄い論文を書く人もいる。
■基本的に、コンテンツとカネを直接交換するのはリスクが高いので、紙メディアでは属人的なファクターが経済におおいに関係する(出版物を出すためには編集者と知り合わなければならない)。
■資本主義社会の元では、カネがその行為(コンテンツであれ、コミュニケーションであれ)の「評価」と結びつく(とされがち)。
■いっぽう、ネットでカネを稼ぐことは、その行為の「評価」とは関わりない場合が多い。
■なぜなら、パケットを受け取り飛ばすことのコストは無料に近いから。
■紙はそういうわけにはいかない。粉川哲夫がかつて語ったように、こんにちの紙とは一種のディスプレイとして再定義される。つまり、軽くて表示されたものが変わりにくい画面、ハードウェアなのだ。その製造にかかるコストが(これまで無視されてきたが)よりクローズアップされてくる。知らないうちに。
■(経済的な)問題は記号系の方にではなく、ハードウェアの経済の方に存在する。コンテンツにもコミュニケーションにも、カネは必要ないのだ(ほんとうは)。
■まあそんなことはいいや。繰り返す。コンテンツはカネとは関わりない。さらに、それをめぐるコミュニケーションが「何がコンテンツであるか」「そのコンテンツはどのくらいのカネに対応するか」をある程度決定する。メディアを形作る経済構造が、そのコンテンツをカネに変えたり変えなかったりする。で、コミュニケーションとコンテンツの区別は、いつでも流動的だ。
■もう明るくなってきた。このエントリは馴れ合いのコミュニケーションに過ぎないのか?それとも「コンテンツ」なのか?
■そんなことは私にはわからない。アナタにもわかってたまるものか、と思う。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
ちゃんとわかってないかもしれないけど、マスダさんガンガレ。名付けられない衝動最高。
投稿: ひょみ | 2005.05.03 22:43
出版業界はぬるま湯さ。
投稿: アレクサンダー | 2005.05.06 02:30
日々微妙に熱湯に近づきつつあるぬるま湯ね。
そのうち多数の茹で蛙のできあがり〜。
投稿: contractio | 2005.05.10 02:22