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2007.07.12

かつての友だった者へ

かつての友だった者へ。まだ羨望は深いのか。不如意をあてどなき未来への仮託へとすりかえる詐術は、少しばかり上手になったのか。「すべては運である」という世界観を共有していたこと(だけ)をもって友であった俺たちは、その運の多寡によって相異なる道を歩むことになってしまった。俺はその詐術を磨くことに、おまえよりも僅かばかり熱心であっただけだと心底思っている。だから、とはいえ、かような認識ごときがかつての友だった者の不如意に資するものは何らあるまい。ことさらに罪を冠る身振りによって俺の罪悪に許しを乞い願う殊勝など何の意義もあるまい(俺に及ぶなよ)。あのとき、終電の山手線の中で俺たちは「すべては偽善だ」と思っており、それを日々の仕事に疲れ果てた給料取りについて呪詛することこそ「倫理的」なのだと思っていた。その思いは半分ばかりは変わるまい。だが、だからといって、おまえの不如意に加勢することを倫理的と看做す義理は俺にはない。義理は倫理と等しくない。さらば、かつての友だった者へ。かくなる冷酷な口上はあたかも三文役者の政治のようだ、とおまえは言うだろう。そして、かつての俺たちも、一も二もなくそう言った筈だ。で、それがどうした。俺はかつて友だった者を冷たく見据え、おまえはただその不如意しか訴えるべきものはない。それは運である。だから、かつて友だった者との歴史は消えることはないのだ。なんという不如意。そして、言い訳。

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