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2007.08.06

隠喩としての人生

「かつては、あの山を見下ろすほどの寓話を建てたものだった」、そのように大工は私に言った。その寓話は、距離や規模など(つまりは、人が知りうる欲望の物差しということだ)で測れるようなものではなかった、ともひとりごちた(私に聞かせるべきことではなかったのかもしれない。大工は咳払いをした)。

私はそのとき、出来の悪い見習い大工であったが、少しばかりは畏怖という概念を持ちあわせるような年頃になっていた。でなければ、大工の話にそのように素直に耳を傾けることもなかっただろう。仲間のうち、大工の話を小馬鹿にしていた連中は、さっさと稼ぎのよい仕事を探して別の島へと渡っていった。大工の話を真に受け過ぎてしまった連中は、山を見下ろすどころか、寓話と呼ぶにもほど遠い言葉をもてあそぶことに熱中するしかなかった。

私の中途半端さは、幾分か(もちろん、山を見下ろすことなど願うべくもないが)大工の話を隠喩として聞くことくらいには役立ったように思う。かくして、私も見習いを経て、一応の寓話を紡ぐことのできる能力を得ていった。ひどい話ではある。(それもこの戦争の前の話だ。誰もが気づかぬうちに始まり、「戦争が始まった」と誰かが叫んだとき、それは終戦を迎えていたような、そんなひどい話である)

時は過ぎ、かつての仲間たちとの付き合いもなくなった。私はささやかな寓話を日々紡ぎ、出来合の隠喩に自足するような暮らしを過ごしていた。「人に測れる欲望なんて意味がない」といったラディカリズムが勃興するのは(いや、正確に述べるならば、そのような「感性」の勃興である。凡庸な隠喩で済まない)そのような平凡な人生の一時期に対して、なのであろう。

いずれ、再び山を見下ろすような寓話がまたそびえ立つことはあるのだろうか。私はそれを身を焦がすように望む者でありながらも、幾分かは、隠喩という偽善の側につくこと以外の選択肢を失っている自分に気づきつつある者でもある。老いとは。笑止とは。

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