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2009.03.01

超自我になりたい

僕もあたしも超自我になりたい。スーパーエゴ。自我を超える自我になりたい。と彼や彼女はひとりごちながらどこかへ立ち去る(ふりをする)のだが。思えば、「超自我」という訳語は端的に拙かったのだろう、それは決して自我を「超えるもの」ではなく、単に論理階層の違いでしかなかったのだから。日本に住まい学問をするとはそういう拙劣と根気よくつきあうことでしかないと思う。それも決して真面目にではなく、時には転向を執拗につきつけてくるものを気長にやりすごしながら、である。

だが、そのような拙劣に我慢がならない論理階層にとどまらざるを得ぬ事情の人もしばしば存在する。私や俺はそのような拙劣を割と愛するものだが、ハードボイルドという語彙をもって「黄身が黒ずむまでに茹で上げた鶏卵」と直訳することに我慢のならない論理階層もまた現実の一つである。イメージか。ああそうだった、イメージ。いつまで経ってもイメージは視覚の専政を脱することがなく(いや困った、それは概念か)、まさにそこにこそ超自我たらんと欲する欲望は生起するのだ。だが立ち止まって考えてみよ。超自我とは常に「誰かにとっての」それでしかなく、常に「それ」という代名詞で済まされてしまう悲哀を抱えたものであった。それ。超自我たらんとすることをこそ欲望する「それ」。寒い命。男とは「たまたま死んでない裸のいのち」だ、とヴァレリーは言ったらしいが、私、もしくは俺はそんなことを耳にした覚えはない。

だからそれがなんだ。抑圧(のスティグマ)を旗印とする威勢のよい「僕やあたし」たちとすれ違うことを避けるばかりの私や俺だが、既にして二重の超自我とのしがらみを重ねてきたことは周知の通り。あまり出来のよくないこの世界だが、それでも僕やあたしは超自我になりたいのだ。「君を抑圧したい」「あなたを」。おお。ああ。恋に故意にときめくね、春のエクリチュールは無謀。

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